中国歴代の学者は、漢語史に輝かしい貢献をした。ここでは全面的、詳細に述べることはできないが、かいつまんで述べてみる。
歴代の学者たちの漢語研究は、概ね3つの段階に分けることができる。第一段階は漢代初め(紀元前3世紀)~東晋末(5世紀)で、語義研究の段階である。第二段階は南北朝初め(5世紀)~明末(17世紀)で、語音(音韻)研究の段階。第三段階は清初(17世紀)~現在までで、全面発展の段階である。もちろん、語義研究や語音研究の段階というのは、当時の中心的なものであるに過ぎない。第一段階に全く語音研究がなかったわけではなく、第二段階に語義の面の研究がなかったわけでもない。3つの段階ごとに述べてみる。
| (一)語義研究段階 | |
| 『爾雅』 | |
| 『方言』 | |
| 『說文解字』 | |
| 『釋名』 | |
| (二)語音研究段階 | |
| (三)全面発展段階 | |
| 官書 | |
| 說文四大家 | |
| 王念孫と王引之 | |
| 章炳麟 | |
| 清代儒家 | |
| 金文と甲骨文 | |
| 語法研究 | |
漢代以前に語音を論じた学者もあったが、専門書は残していない。中国の言語研究は漢代から始まった。国の統一が長く続いたため、学術的雰囲気が濃厚になったのである。当時の研究作業は主に語義の面であった。なぜなら漢代は儒術を崇拝し、「経」の学習が叫ばれ、儒生ひとりひとりが古書を読む力を備えていたからである。
漢代の語義に関する代表作には(1)『爾雅』(2)『方言』(3)『說文解字』(4)『釋名』がある。
中国最古の字典は『爾雅』である。『爾雅』と後世の字典は異なる。後世の字典は部首の順に従い、同一の「意符」の字は1つの「部」に排されているが、『爾雅』では意味によって分類されている。計十九章に分かれ、「釋詁」「釋言」「釋訓①」「釋親」「釋宮」「釋器」「釋樂」「釋天」「釋地」「釋丘」「釋山」「釋水」「釋草」「釋木」「釋蟲」「釋魚」「釋鳥」「釋獸」「釋畜」がある。「釋詁」と「釋言」の2章は基本的に形容詞、動詞、抽象名詞、「釋訓」は基本的に「連綿字」で、その他の分類は分かりやすい。前3章で全体の3分の1を占めている。多くの同義語を並べ、最後に1つの常用語で解釈している。例えば「釋詁」第1条は「初、哉、首、基、肇、祖、元、胎、俶、落、權輿②,始也」とある。その他各章は事物の名称の簡単な分類に定義を加えてある。言い伝えでは『爾雅』は周公の著作とされるが、これは明らかな誤りである。『爾雅』は主に「経」の読解のために作られたものであり③、この書の完成は漢の武帝が「経学」を提唱した後であることは間違いなく、多くの人の補足を経たものなのである。ただし『漢書・藝文志』にすでに『爾雅』が見えることから、『爾雅』の成立は西漢(紀元前3世紀~1世紀)の時代である。晋の郭璞の『爾雅』の注は非常に深い。後世、『爾雅』をまねた書も多く出た。最も古いのは魏(220~265年)の張揖の『廣雅』で、この書名は「爾雅の拡大」という意味である。
揚雄(紀元前53~紀元18年)の『方言』は、字典の中では特殊な部類に属する。中国で最初の方言を記録した書なのである。『方言』も意味ごとに整理されているが、『爾雅』のように系統的な分類ではなく、「釋詁」などのような類名もない。例えば「嫁、逝、徂、適,往也。自家而出謂之嫁,由女而出為嫁也。逝,秦晉語也。徂,齊語也。適,宋魯語也。往,凡語也」。「凡語」とは現在のいわゆる普通話④のことである。方言の違いの大部分は語彙の違いで、例えば「舟,自關而西謂之船,自關而東或謂之舟,或謂之航」というのも、同一語の異なる地域での異なる読音なのかもしれない。また「自關而東曰逆,自關而西或曰迎」というのは、「逆」と「迎」の古音が近いこと、どちらも「迎える」という意味であることが分かる。揚雄のこの専門書以外、漢代の儒家および後世のその他著作にも方言に触れた箇所がある。清代の杭世駿の『續方言』は『十三經注疏』『說文』『釋名』などの書にある方言を集めた書だが、その出典は明記されていない。
字の偏旁に従って編まれた最初の字典は許慎の『說文解字』(100年)である。全書は540部からなり、計9,353字を集めている。この書はその後2千年間の漢語字典の運命を決定付けた。なぜなら後世の字典は基本的に『說文』を継承しているからである。また後世の漢語の語義にも大きな影響を与え、正字法でも大きな役割を果たした。唐宋以降、『說文解字』は中国の文字研究の主要な参考書となり、17世紀以降の研究者はさらに多く、『說文解字』を論じた専門書と論文を合わせると数百種類にも上る。『說文解字』は各字に対してその意味の解釈をしてはいるが、しかし許慎のこの書の主な対象は字義ではなく字形であった。彼は、各字がどうしてそのように書かれるのかを説明しようと意図し、主に字の本義を探し出し、本義によってその字の構造の理由を説明したのである。
許慎の少し後に劉熙(2世紀)が出た。劉熙は『釋名』を著した。『釋名』も意味によって編纂された字典で、その配列は『爾雅』によく似ており(「釋詁」「釋訓」などの分類法が流用されている)、そのため後世では「逸雅」と呼ぶ者もある。しかし内容の性質から言うと、『釋名』と『爾雅』はかなり違っている。劉熙は各字が最初に命名された原因を究明することを意図していたため、彼のこの書には『釋名』という名が付けられている。彼は古くからの多くの事物の名称には「雅」なるもの、「俗」なるものがあり、しかも方言によっても異なっていると考えた。庶民は毎日の話の中で事物の名前を口にするが、誰もなぜそのような名前が付けられているのかを知らない。彼の書はまさにこの「なぜ」を追求したものであった。劉熙は語音と語義には必然的な関連があり、語音から語義の起源を解明できると考えた。これは中国語源学の最初の書なのである。例えば『釋名』では「江,公也,諸水流入其中所公共也。」または「苦,吐也,人所吐也。」という。このように「双声疊韻」を用いて解釈する方法を「声訓」という。「声訓」は漢代儒家の一種の気風で、例えば『白虎通義』(班固の作と伝えられる)と『說文』には、「声訓」を用いた箇所が非常に多くある(『白虎通義』:公者通也,侯者侯也,伯者白也,子者孳也,男者任也/『說文』:天,顛也;馬,怒也,武也;戶,護也)。「声訓」は科学的な方法ではない。語音と語義とは関係がある(第五十七節を参照)が、『釋名』のような主観的な憶測は誤りである。ただこの書は漢語史の上ではやはり一定の価値がある。それは我々がその「声訓」から上古の語音システムを垣間見ることができるからである。
古書注釈の作業も漢代まで遡ることができる。漢代で最も有名な経学の師・鄭玄が著した『詩經』『周禮』『禮記』の注釈は、いずれも非常に重要な著作である。漢代以降、歴代の学者にはいずれも優れた功績がある。唐代の陸徳明(約554~642年)の『經典釋文』(583年)、孔穎達の『五經正義』は、どちらも前人の意見を総括したものなのである。
南北朝(420~589年)以降、言語研究の重点は語音(音韻)の方面に移った。これは偶然ではない。当時、詩律学が次第に発達し、韻率(調子)と節奏(リズム)を研究するために、語音の構造を明確に分析する必要が出て、声調の特性を発見するに至った。仏経の翻訳により、中国の言語学者はインドの音韻学を知った。早くは2世紀(東漢)、中国人はすでに各音節を2つの部分に分けることができるようになっていた。現代でいう「声母」と「韻母」⑤である。沈約(441~513年)が『四聲譜』を著したと伝えられ、当時の詩人はすでに漢語に四声があることを認識し、その認識を実際の詩律に用いた。
字典のほかに韻書があった。韻書も実は字典の一種で、音で配列された字典に過ぎない。陸法言の『切韻』(601年)は、現在見ることのできる最も古い韻書である。しかし『切韻』の原本はすでに存在せず、最近は多くの唐人の手抄本⑥が発見されている。『切韻』は全国に流行し、多くの増訂本が出た。最も新しい増訂本は1008年の『広韻』と1037年の『集韻』である。一般にいう「切韻システム」とは、実は『広韻』システムに基づいている。『広韻』には計206韻あり、5巻に分かれている。平声2巻、上去入声が各1巻である。『切韻』は漢語史では重要な地位を占める。『切韻』の語音システムによって、上は古音、下は現代音を推定できる。現代漢語普通話と各地の方言の語音システムは、基本的に『切韻』システムから説明できるのである。
韻書以外に「韻図」がある。これは一種の表で、同じ列が同じ声母を、同じ行が同じ韻母・声調を表わす。このような韻図は、語音システムの全貌、声母と韻母の組み合わせの関係を表わしている。現存する韻図の中で最も古いものは12世紀のもので、歴史家・鄭樵(1104~1162年)の『通志』の中の『七音略』がそのような韻図である。『七音略』と同時代の(またはそれより早い)ものに『韻鏡』(作者不明)がある。『韻鏡』と『七音略』の形式は大体同じで、いずれも『切韻』システムに基づいている。少し後の『切韻指掌圖』(司馬光の作と伝えられる)は、当時の実際の語音によって手が加えられている。それ以降に出てきた韻図は、いずれも次の2種類の範囲のものである。1つは伝統的音韻学によるもの、もう1つは当代語音によるものである。
13世紀~17世紀(元~明代)の中国の言語研究は、主に北方の生きた言語を対象とした。周德淸の『中原音韻』(1324年)は「北曲」のために作られたもので、完全に14世紀の「北音」に基づいていると言え、現代漢語普通話の重要な歴史文献である。声調から見ると、当時の「北音」の入声はすでに消失し、平声は陰陽の2種類に分かれ、今日の「北音」の状況とほぼ一致している。『中原音韻』の韻類は19部に分かれ、今日の「北音」と比べても違いは少ない。明初の樂詔鳳、宋濂らが勅命によって撰した『洪武正韻』(1375年)は自ら「一以中原雅音為定」としているが、その中には呉音の特徴(濁音と入声)も混ざっている。それ以後の音韻を論じた多くの書物はいずれも「北音」を根拠としている。朱權の『瓊林雅韻』(1398年)、陳鐸の菉斐軒『詞林要韻』(1483年)、蘭廷秀の『韻略易通』(1442年)、畢拱辰の『韻略匯通』(1642年)などである。私たちが普通話の歴史を研究する時、これら書はいずれも重要な参考資料になるのである。
17世紀~19世紀(清初~太平天国)は中国の言語研究に最も功績のあった時代である。満清統治は、文化思想への統制が最も厳しく、一般の学者の多くは現実から乖離し、古書の整理と考証に従事することを迫られ、漢語の古義と古音はこの時代に大きな発展があった。このような気風は漢代の儒家に非常によく似ているため、「漢学」と呼ばれる。またこの種の学問は実事求是であることから「樸学」とも呼ばれる。
まず述べるのは字典の類である「官書」である。『康煕字典』は1716年に成立した。陳廷敬らが編纂し、4万7021字を収録している。同書も部首によって配列され、計214部に分かれる。この書が出るまでの間によく用いられた部首配列の字典は、漢代・許慎の『說文解字』、梁代・顧野王(519~581年)の『玉篇』(548年)、明代・梅膺祚の『字彙』(1615年)、張自烈の『正字通』(17世紀)である。『說文』は小篆を用いており、一般大衆のニーズにはマッチしていない。『玉篇』の形式は非常に良いが、惜しいことに字の配列に秩序がなく、検索に不便である。『字彙』と『正字通』は当時最も広く流布したが、内容に多くの誤りを含んでいる。『康煕字典』の長所は、収集が広範で、できる限りの例示説明がなされ、最初にどの書に見えているかができる限り書かれているところである。この書の編纂者は計30人で、編纂には5年を費やした。
康熙時代で触れるに値する官書はさらに2部ある。1つは『佩文韻府』(1704年)で、詩作で用いることができる複音詞と仂語が収められている。もう1つは『駢字類篇』(1719年)で、双音詞が収められている。この2部の書は、韻文と散文のために著されたものだが、漢語史にも役に立つ。
阮元(1764~1849年)らが編集した『經籍籑詁』(1799年)は、経史諸子の注釈を字ごとに収集し韻で配列した、非常に有用な参考書である。その長所は収集が詳細なところで、特に篇名が明記され、非常に厳密である。同書も官書である。阮元が経学の徒を若干名選抜し、5ヶ月をかけて編集された。
大勢で字典を編纂するのに、政府によって指導がされたという経験は、今日でも学ぶに値することである。
『說文』学は清代に最も盛んであった。清代の『說文』研究者は数十人を下らない。その中で最も著名なのが段玉裁(1735~1815年)、桂馥(1736~1805年)、王筠(1784~1854年)、朱駿聲(1788~1858年)である。彼らは『說文』四大家と呼ばれている。
段玉裁は『說文解字注』(1808年)を著した。注釈が精確である以外、同書には2つの長所がある。第一に、彼が許慎を盲目的に崇拝しておらず、『說文』を批判的に受け入れることができたこと。第二に、彼には歴史的観点があり、語義発展の過程を指摘することができ⑦、先秦の古義を解釈するだけにとどまらなかったことである。桂馥は『說文解字證』(19世紀初)を著し、『說文』と各経書の字義と相互に考証した。こういうやり方は非常に客観的なもので、読者に彼が十分な材料を使うことができたと感じさせる。王筠は『說文釋例』と『說文句讀』(1850年)を著した。前者は『說文』の初学には非常に有益である。朱駿聲は『說文通訓定聲』(1833年)を著した。部首で配列せず、また現在の韻でもなく、古韻十八部によって配列した。これは彼の高明なところである。なぜなら、語音の上では同じ類のものが互いに関連し、しばしば字形による障害を取り去って語義の関連を窺うことが可能だからである。各字の下にまず本義を挙げ、次に転注、その次に仮借を挙げ、転注・仮借に分類できないものは別義としている。そのほかに声訓、古韻、転音(すなわち通韻)などもある。こういう形式は非常に優れている。
王念孫(1744~1832年)とその息子の王引之(1766~1834年)は『說文』の大家ではないが、この高郵(江蘇)の王氏父子の言語研究での功績は『說文』四大家よりも優れている。王念孫の主な著作は『廣雅疏證』と『讀書雜誌』、王引之のは『經義述聞』と『經傳釋詞』である。『廣雅疏證』は上古名物学である。『讀書雜誌』は古書の誤りを校正した著作で、字形、字音、字義のいずれにも精確な考証がなされている。『經義述聞』は「経義」を解釈した書(「述聞」とは彼の父親から聞いた話という意味)で、王引之の方法は、おおよそ前人の注釈の相互に異なる点について、その中から「経義」に即した説を採り、「経義」に即さない場合は別の経書と古人のもともとの訓詁を参考にして別途解釈するというものである。『經傳釋詞』は「虚詞」を解説した書である。王氏父子の最大の長所は、『說文』から出発せず、字形にとらわれず、全てを語音に準拠しているところである。こうすることで、前人の犯した2つの過ちを避けることができた。その1つは、1つの字の意符にこだわり過ぎて、如何にこじつけであろうと理屈が通るようにしていること。2つ目は、字形が同じか近いもので字義が近いことを証明することしか知らず、字音が同じか近い場合で、字形に関連がなくても字義は相通じ合うことを知らなかったことである。王氏の方法は非常に科学的である。ここでついでに2つの書を挙げておきたい。『經傳釋詞』と同じ類であるのが劉淇の『助字辨略』で、『經傳釋詞』より前(1711年)に成立した。『讀書雜誌』『經義述聞』と同じ類に属すのが、兪樾の『古書疑義舉例』で、『讀書雜誌』『經義述聞』より後に出来た。
章炳麟(1868~1936年)は言語研究で大きな功績がある。彼は清代樸学のしんがりである。彼の言語の主な著作は『文始』『新方言』『小學答問』で、『國故論衡』の中にも文字、音韻に関する多くの理論が見られる。『文始』の中では、「声訓」の合理的な点を取り入れ、語音の関連から語義の相互の関連を証明し、各語の語源を探求しようと試みている。『新方言』は現代音によって古音を考証している。『小學答問』も文字学上の問題を解決している。
清代儒家は古音の面、特に古韻の面(ここでの「古」は先秦を指す)で、空前の功績を上げた。明末の陳第が『毛詩古音考』(1606年)を著してから、古音研究の気風が幕を開けた⑧。清初の経学の大家・顧炎武は『音學五書』(音論、詩本音、易音、唐韻正、古音表)を著し、古韻を十部に分けた。その後、江永、戴震、段玉裁、孔廣森、王念孫、江有誥、章炳麟、黃侃らによって徐々に修正が加えられた。江永は十三部に、戴震は九類廿五部に、段玉裁は十七部に、孔廣森は十八部に、王念孫と江有誥は廿一部(ただし実際の分類にはやや違いがある)に、章炳麟は廿三部(晩年には廿二部に減らす)に、黃侃は二十八部に分けた。部数の違いは、単に範囲の広狭の問題である。実際にある字をある部に分類するのに、ほとんど全てに定論がある。声母の面では、錢大昕(1727~1786年)が「古無輕唇音(古に軽唇音はなかった)」「古無舌上音(古に舌上音はなかった)」を証明した。これら成果は卓越している。如何にこれらの結論を得るかについては、第十一節の中で述べる。
金文学は11世紀から始まり、清末になって再度興隆した。呉大澂の『說文古籀』(1898年)、孫詒讓の『名原』(1905年)はいずれも金文研究の著作である。
1899年に甲骨文が安陽で出土してから、中国の言語研究に新しい天地が開かれた。最初に甲骨文を研究したのは孫詒讓で、彼の著作には『契文舉例』(1904年)がある。羅振玉は最も多く甲骨を手に入れ、影印として出版した⑨。彼は『殷虛書契考釋』(1911年)を著した。羅振玉と同時期に王國維(1877~1927年)がいる。彼には『戩壽堂所藏殷虛文字考釋』(1914年)などの著作がある。
金文と甲骨文は合わせて古文字学と呼ばれる。古文字学の研究は漢語史上で重要な地位を占める。郭沫若氏にはこの方面で卓越した功績があり、彼が著した『甲骨文字研究』(1929年)、『卜辭通纂考釋』(1933年)、『殷周青銅器銘文研究』(1930年)、『金文叢考』(1932年)、『兩周金文辭大系圖錄與考釋』(1934年)などは、いずれも高い評価を得ている。
語法は中国の言語研究の中では新興の学問であるが、中国古代の学者に全く語法という概念がなかったとは言い切れない。18世紀の中国の言語学者は、字を実字と虚字に分けた。この2つの術語はヨーロッパに伝わり、西洋の言語学者にも採用された。虚字の概念は漢代にすでにあった。許慎はこれを虚字とは呼ばず、「詞」と呼んだ(王引之の『經傳釋詞』はここから命名された)。『說文』では「乃,曳詞之難也」または「皆,俱詞也」あるいは「矣,語已詞也」などなど、いずれも許慎が虚詞を実詞から区別できていることを証明している。劉淇の『助字辨略』、王引之の『經傳釋詞』に至り、語法成分としての虚詞が、用法の上からより全面的に研究され始めた。
語法は1つの学問として、かつて唐代にインドから中国に伝わった。当時は「声明⑩」と呼んだ。「声明」は名詞の変格や動詞の変位を論じた⑪。
中国で最初の語法学者は馬建忠(1845~1899年)である。彼の『馬氏文通』(1898年)は、ラテン語法の影響を受けている。彼は、人種は違っても、人類の思考方法は同じであると考えた。西洋諸国の言語にはみな一定の不変の法則があるため、彼はそれを『律吾經籍子史諸書』に著した⑫。彼の方法は漢語の特徴を重視していないが、彼はやはり中国語法学の基礎を築いた人物だといえる。彼は語法の術語を考案し、詞類を分けた。『馬氏文通』の研究対象は、基本的に上古時期(先秦、両漢)の語法である。彼が分析に使った材料は『論語』『繋辭』『左傳』『檀弓』『莊子』『孟子』『國語』『國策』『史記』『漢書』などの書である。漢代以降からは韓愈の文章しか引用されていない。
以上述べた一連の事実から見ると、中国の歴代の学者の漢語史への貢献は非常に大きい。我々は古人の言語研究の成果を利用し、その基礎をもとにして向上しなければならない。しかし、漢語史は1つの科学として、今日でも確立されているとは言えないことも指摘しなければならない。時代による制約のため、中国歴代の学者は、歴史発展の全過程から漢語の歴史を外観することができなかった。彼らが着眼したのは先秦・両漢だけだった。彼らは漢語発展の内部的法則を探求しようとはしなかった。古代の学者の功労は大事に値する。しかし、漢語史という科学の完成には、我々の世代の言語研究者の努力も必要なのである。
、翕、葉、聚也。楚謂之
,或謂翕。葉,楚通語也」とある。