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![]() | 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 岩波文庫 |
倭人在*帶方東南大海之中,依*山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者。今使譯所通*三十國。
訳
倭人は帯方(郡)東南の大海にあり、山島によって国とする。古くは百余国あり、漢代に朝見者があった。今使訳が通じるところ三十国。
注
| 帯方(郡): | 朝鮮半島内の地。魏王朝はここを郡としてその支配下に置いていた。よって、「倭国」への旅はここが起点となっている。>>世界歴史事典データベース-帯方郡、楽浪郡・帯方郡の研究、古代朝鮮地図 |
|---|---|
| 山島: | 山の多い島と解す。日本列島と見て間違いない。 |
| 三十国: | これは以下で検証してみたい。 |
從郡至倭,循海岸水行*歴韓國*,乍南乍東到*其北岸*狗邪韓國,*七千餘里。
訳
(帯方)郡から倭へは、海岸沿いに水行し韓國を経る。南行してから東行して、倭の北岸(境)の狗邪韓国に到る。七千余里。
注
| 歴韓國: | 「歴」は説文で「過也」とあり、通り過ぎるの意。韓國とは「三韓」(馬韓、辰韓、弁韓)のこと。前項「韓」に「韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。」とある。郡使はこの地域を陸行せず、船で最初の目的地へ向かったと見られる。 |
|---|---|
| 乍南乍東: | 乍東乍南ではなしに、乍南乍東といっていることから、まず南下した後、東に針路を変えた。つまり、朝鮮半島西側沿岸を南下し、半島西南角から東へ折れたと思われる。「乍」は「康煕」の「増韻」に「暫也。初也。忽也。猝也。甫然也」とある。よってある地点まで南下した後、急に東に向かったと読めるのである。 |
| 其北岸: | 「其」は「倭」のことで、倭の「北岸」ということは、「狗邪韓國」は倭人の領域だったことになる。 |
| 狗邪韓(國): | 半島南岸のどこかにあったと思われる。前項「韓」の弁韓の記述の中に「弁辰狗邪國」(弁辰は弁韓のこと)と出てくるが、「狗邪韓國」のことなのかどうか分からない。また弁韓の項には「其瀆盧國與倭接界」(その瀆盧國は倭と国境を接している)とあるが、この「瀆盧國」の隣が「狗邪韓國」だったのだろうか?いずれにしても、郡使がここから「倭」に入るのであるから、「倭」とは密接な関係があったことは確実である。狗邪は、後の「伽耶(かや)」や「加羅(から)」、「高麗(Koryo)」、「コリア(Korea)」まで連想させ、非常に興味深い。
※「弁辰狗邪國」にわざわざ「弁辰」という冠が付いていることについて、「弁辰與辰韓雜居」(弁辰と辰韓は雑居)とあり、両国の24ヶ国が入り乱れて羅列されているためにそうなっている。よって国名は「狗邪國」である。これが「倭人」の項でいう「狗邪韓國」のことかどうか分からない。 ※「狗邪」の後に「韓」が付く命名法について、「馬韓」や「弁韓」と似ており、三韓とは独立した一地域だとも思われるのだが、そうなると「狗邪」は韓人の地であり、倭人の地ではないことにもなる。 |
| 七千餘里: | まず上述「韓」の項はじめに「方可四千里」とあるので、これが南下の距離と見られる。残り三千里余りが東行距離だが、最初の南下の日数とその距離(すでにあるデータ)から算出されたのでは? |
(備)ここで最初の「到」が出ている。まさに倭との国境であり、使節はおそらくここで、「倭」入国の手続きのため、また渡海の準備や倭側の引率者などの手配のため、一定期間滞在したと考えられる。すべて水路で「狗邪韓國」まで行ったと読んだのは、「陸行」したとは書いてないので。
>>三國志-魏書-東夷-韓、 ウィキペディア「朝鮮の歴史」、古代朝鮮地図
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
狗:古厚切 (kou)。
邪:以遮切 (ye)。
始度一海千餘里,至*對海國。
訳
始めに一海千余里を渡り、対海国に至る。
注
| 對海国: | 大陸側(北)から見ると、後に出てくる「瀚海」(南側)に面しているので「對海」と呼ぶ。逆に「倭」から見ると、「馬韓」に面しているため、「倭」では「對馬」と言ったのではないか? |
|---|
其大官曰*卑狗,副曰*卑奴母離。所居絶島,方可四百餘里,土地山険,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田,食海物自活,乗船*南北市糴。
訳
その(對海國の)官は卑狗といい、副(官)は卑奴母離という。居住するところは絶海の孤島、長さは四百余里はあるだろう。土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿(けもの)の徑(みち)のようだ。千余戸あるが、良田はなく、海の物を食して自活し、乗船して南北に商いし穀物を求める。
注
| 卑狗: | (ピコ)。「彦」とする説が多い。 |
|---|---|
| 卑奴母離: | (ピノモリ)。「夷守(ひなもり)」か? |
| 南北: | 島内に良田がなく穀物が取れないことから、半島(北)や一支国または九州(南)へ渡り、海産物と交換で穀物を手に入れたと思われる。 |
(備)島の大きさについて、確かな情報ではないことが分かる。現地人も知らなかったか、そういう案内もなかったため使節自ら目分量で述べたのか?使節は上陸中に見てまわったのだろうか?それとも乗船して島を迂回する際見積もったのか?
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
卑:補移切 (pi)。「補」は「博古切」で「po」であったろうから、「卑」は厳密には「poi」あるいは「pui」のような音だったと思われる。ちなみに現代北京音は「pei」。
奴:乃都切 (nu)。「ノ」あるいは「ヌ」のはずで、「ナ」は考えにくい。
母:莫后切 (mou)。「モ」。
離:呂支切 (li)。「呂」は「リョ」であり、現代北京音でも「lü」なので、「離」は「lï」のような音かと思われる。
又南渡一海千餘里,名曰*瀚海,至*一大國。
訳
また、南へ「瀚海」という一海千余里を渡り、一支国に至る。
注
| 瀚海: | 「瀚」は、「康煕」の[集韻]に「又混瀚水貌,又浩瀚廣大」とある。意味からいうと、広い海ということか。位置からいうと、現在の玄界灘東水道と思われる。(地図参照)一度韓国釜山(プサン)から博多港まで高速艇に乗ったことがあるが、海が時化に時化て生きた心地がしなかった。この「瀚」の字を見ると、どうしてもあの時のグルグルうずまく海を連想してしまう。 |
|---|---|
| 一大國: | 大は「支」の誤り→「考証(1)」。一支國は壱岐と思われる。 |
官*亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可*三百里,*多竹木叢林。有三千許*家,差有田地,耕田猶不足食,*亦南北市糴。
訳
官はまた卑狗といい、副(官)は卑奴母離という。長さは三百里はあるだろうか、竹木叢林が多い。三千余軒あり、わずかに田地があるが、なお食すに足らず、ここでも南北に商いし穀物を求める。
注
| 三百里: | 最初の通過地「對海國」が現在の対馬だとして、その「四百餘里」と比べると、壱岐が大き過ぎるか、逆に対馬が小さすぎる。(地図参照)どちらも正確な情報には見えないことから、郡使は「對海國」の全土を見ていないのかも知れない。 |
|---|---|
| 亦: | 前述「對馬国」と同じくという意味。官名が同じ、そして南北に穀物を求めることも同様。 |
| 家: | その他の逗留地は全て「戸」数で記述してあるのに対し、ここだけ軒数になっているのが謎である。たまたまその情報が得られなかったのか?「説文」で「家」は「居也。」で住まいのこと。 |
(備)對海国に非常に良く似た風土習慣を持っていることが分かる。
又渡一海千餘里,至*末廬國。
訳
また、南へ一海千余里を渡り、末廬国に至る。
注
| 末廬(國): | (マットゥロ)。発音からみて「マトゥロ」(マツロ)は「松浦」(現長崎県松浦)のことか?松浦であれば、対馬→壱岐→松浦と、まっすぐに南下してきたことになる。(地図参照)ただ距離的に見て、現在の呼子あたりに着くほうが近い。この辺りも「末廬國」だったのだろうか?後世、秀吉が朝鮮半島に出兵して、その後の日朝関係に決定的な禍根を残した際、この地に「名護屋城」が築かれ、朝鮮戦略の基地とされたことを思えば、ここが島づたいに最短距離で渡海できる最良地だったのだ。また、唐津には松浦川があり、その関連も興味がある。 |
|---|
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
末:莫撥切 (mat)。「末」と「撥」は現代北京音で「mo」「po」なので、母音は「オ」に近い「ア」だったのだろうか?
廬:力居切 (lo)。「居」は「九魚切」とされ「kyo」だと思われ、現代北京音でも「jü」というウムラウトであるので、「lö」のような音だったのでは?ちなみに「廬」は現代北京音で「lu」、日本語では「リョ」と「ロ」がある。
有四千餘戸,濱山海居。草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈没取之。
訳
四千余戸あり、浜山海に居住する。草木が生い茂り、道をゆくにも前方が見えず。魚を捕ることを好み、水の深さにかかわらず、皆潜水してこれを捕る。
(備)「四千餘戸」という「戸数」情報もあり、かなり大きな国であるのに、官、副(官)が記されていないのはなぜだろうか?ただ通過しただけだからだろうか?ことさらに海辺や山野で生活していること、草木が道路の視界までさえぎっていることが書かれており、とても拓けた土地ではないことを強調したいのだろうか?
リンク:末廬国・菜畑遺跡
*東南陸行*五百里,到*伊都國。
訳
東南に陸行すること五百里。伊都國に到る。
注
| 東南陸行: | 郡使の上陸が、松浦であったにしろ、呼子であったにしろ、「伊都國」があったと考えられる現在の糸島(いとしま)半島あるいは前原(まえばる)市は、東南の方向ではない。(地図参照)ただ、最初海沿いに道をとるなら、まず東南へ向かう。道路や街道というのは、常に同じ方角に向かっているわけではないので、あるいは歩き出しの方角を言っているのかもしれない。 |
|---|---|
| 五百里: | 「漢和辞典」に「魏」代の「里」は300歩=434.16mとある。これを拝借して計算すると、15万歩=217kmになる。「末廬國」が呼子辺りだったとすると、JR筑肥線で呼子に最も近い「西唐津」駅(地図参照)から「伊都國」があっただろう付近の「周船寺」駅までは、約38km(1駅間約2.5kmで計算→筑肥線ダイヤ)で、「1里=434m」という換算はおかしい。逆に帳尻合わせに、1里を50歩=72mにして500かけると36kmというのはどうだろう。 |
| 伊都(國): | (イト)。国名や考古学的発見の数々から、現在の福岡県前原市辺りにあったと思われる。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
伊:於脂切 (yi)。イ。
都:當孤切 (du)。ト。
(備)「始」や「又」などの言葉がなく、いきなり「東南陸行」で始まるため、「末廬国」へ上陸後、息もつかずに出発した感がある。そういう意味からも、郡使が「伊都國」を目指していたのだろうと思われる。「末廬國」は単に通過地に過ぎないようであるし、そもそも正史に書かれるぐらいだから、郡使は常に「末廬國」に上陸後、陸路「伊都國」に向かうと思われる。そうすると、「伊都國」は海辺にはなく、「伊都國」の海の玄関は「末廬国」だったとも考えられる。
官曰爾支,副曰泄謨觚・柄渠觚。有*千餘戸。世有王,皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
訳
官は爾支といい、副(官)は泄謨觚・柄渠觚という。千余戸ある。代々王があり、すべて女王国に属す。(帯方)郡使が往来する際、常にここに留まる。
注
| 爾支: | (ニキ/ジキ)。 |
|---|---|
| 泄謨觚: | (エイモコ?)。 |
| 柄渠觚: | (?) |
| 千餘戸: | →考証(1) |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
爾:兒氏切 (ri)。ニ/ジ。
支:章移切(chi)。ツィ。
泄:於制切(yei)。エイ。
謨:莫胡切(mu)。モ。
觚:古乎切(ku)。コ。
柄:陂病切(pyo:)。
渠:彊魚切(kyu)。キョ。
(備)戸数は少ない。代々の王は代々女王国に属しているというが、「伊都國」は最初から独立国ではなかったということか?一つ疑問は、「王が代々女王国に属す」ということは、女王も代々世襲されていることになるのだろうか?とすると「女王国」は女系継承なのか?官は「伊都國」王直属か、それとも女王直属か?郡使の行き帰りには必ずここに滞在するということは、女王国の大陸窓口であろう。
東南至*奴國*百里。
訳
東南し奴国に至るには百里。
注
| 奴(國): | (ノ/ヌ)。後漢時代の金印「漢委奴国王」や、現在の博多湾沿岸を「なのつ」などと呼ぶ関係で、多くの説はここを「ナコク」とするが、「奴」は字音から考えると「ナ」と読むのは無理があるような気がしてならない。 |
|---|---|
| 百里: | 上述、1里を50歩=72mで換算すると7.2km。現代の地図では前原市辺りから「奴國」があったろうと思われる福岡市や春日市、太宰府市などまでは、縮尺が合わなくなる。ただ、ここでいう距離が国境までということであれば、以下でいう「二萬餘戸」という巨大人口を考えると、その国土は相当広いもので、あるいは正確なのかもしれない。 |
(備)ここで気になるのは、この文の語順である。これまでの通過地到着の描写を見てみる。「始度一海千餘里,至對海國。」「又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國。」「又渡一海千餘里,至末廬國。」「東南陸行五百里,到伊都國。」海を渡った時は「渡海~~里,至~~」、陸行だと「陸行~~里,到~~」と、必ず「(方角)交通手段 + 距離 + 至 or 到 + 目的地」だが、ここは「方角 + 至 + 目的地 + 距離」なのだ。これと同じ型は冒頭の「從郡至倭,循海岸水行,~~,~~,七千餘里」であるが、途中「到其北岸狗邪韓國」と言っており、実際に「水行」して行ったことがわかるが、「東南至奴國百里」は到着したという「動詞」がないのである。よってこの文からは単に「伊都國」から「奴國」への行き方と距離が分かるだけで、郡使が実際に「奴國」に行ったか否かは分からない。ちなみに現代北京語にもこういう型があり、「向東南走到奴國有一百里地。」(東南方向に奴國まで百里ある)となるが、まさに単なる行程の叙述で、これだけでは実際にそこへ行ったかどうか分からない。実際に行った文は「向東南走了一百里地到了奴國。」となり、中国語の語順を考える上で、非常に重要な違いなのである。
官曰*兕馬觚,副曰*卑奴母離。有*二萬餘戸。
訳
官は兕馬觚いい、副(官)は卑奴母離という。二万余戸ある。
注
| 兕馬觚: | (ジマコ)。 |
|---|---|
| 卑奴母離: | 「對海國」「一大國」と同じ。副(官)に関して言えば「奴國」はこの2国と同等かと思われる。 |
| 二萬餘戸: | これまで登場した国の中で最高の戸数。「伊都國」の20倍。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
兕:徐姉切 (ssi)。ジ。
馬:莫下切(ma)。マ。
(備)副(官)名が「對海國」「一大國」と全く同じであるが、(主)官名は「對海國」「一大國」がどちらも「卑狗」であるのに対し、「奴國」は「兕馬觚」とある。このことから「奴國」はその性質において「對海國」「一大國」と近いが、等級においては両国との間に違いがあったと思われる。「伊都國」と比べると、官、副ともに違い、戸数もかなりの格差があり、さらに「伊都國」には王がいるが「奴國」にはいなさそうで、この2国の性質は全く違うと言うべきだ。また、これほどの人口を支えるには、相応の規模の国土(水田)が必要であり、そうすると相当に広い平野でなければならず、またそれほど拓けた国であれば、郡使などはもっと興味を持って良いはずなのに情報があまりにも少ない。もっと不思議なのは、これほど大きな国に王がおらず、その20分の1規模の「伊都國」には王がおり、女王国の重要な機能を果たしていることである。
リンク:奴国の丘歴史資料館 | 春日市/奴国物語 | 奴国
東行至*不彌國*百里。
訳
東行し不弥国に至るには百里。
注
| 不彌(國): | (プッミ)。宇美か? |
|---|---|
| 百里: | 「奴國」への距離と同じ。ということは「不彌國」は「奴國」の北あるいは北東に位置すると思われる。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
不:方久切 (fou)。「説文」の注では「否」と同じ発音とされているが、「正韻」では「逋没切」(bot)、「廣韻」では「分物切」(vut)であり、古くは(bot/vut)であったと思われる。(プッ)。
彌:「廣韻」:武移切(vi)/「集韻」:民卑切(mi)。ミ/ビ。
(備)「伊都國」は「郡使往來常所駐」であるため、その後の各国への行程は「伊都國」が起点になっていると考えた。そしてここは「方角(行) + 至 + 目的地 + 距離」の型で、「(陸)行」することは分かるが、郡使が実際に出かけたのかどうか分からない。
官曰*多模,副曰*卑奴母離。有*千餘家。
注
| 多模: | (タモ/トモ)。 |
|---|---|
| 卑奴母離: | (ピノモリ)。「對海國」「一大國」「奴國」と同じである。 |
| 千餘家: | 「一大國」同様、戸数ではなく「家」数である。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
多:得何切 (to/ta)。タ/ト。
(備)「對海國」「一大國」「奴國」同様、副(官)は「卑奴母離」で、国の性質としては似通っていると思われるが、官は「多模」で他国と違い、家が千軒で規模は小さい。戸数ではなく「家」が使われるということは、「一大國」と同様である。米など租税となる作物を生産していないということか。
南至*投馬國,*水行二十日。
訳
南に投馬国に至るには水行二十日。
注
| 投馬(國): | (ドウマ/ゾウマ)。 |
|---|---|
| 水行二十日: | 不思議なことに、ここから旅程は日数に変わる。川か海かという疑問が涌くと思うが、九州北部から南へ下るのに、常識的に考えて川だろう。海を渡って来た郡使が、再度海に入る場合、それなりの記述があっておかしくないはず。地図で調べてみると、現在の福岡市を流れる「三笠川」は大宰府天満宮裏の「宝満山」から流れている。この「宝満山」に端を発すもう一本の川「宝満川」は実は、そのまま筑後川に合流した後、有明海に注ぐのである。そして「宝満山」の北西、ちょうど「大野城」をはさんで後世「大宰府政庁」があった裏側が現在の宇美町である。ここら辺りは古代、宗教・政治・交通の要所だったと思われる。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
投:度矦切 (dou)。ドウ。
(備)「投馬國」が五万戸余りという大国であること、現在の福岡市辺りからほとんど船に乗ったまま行ける土地ということを考え合わせると、投馬国は現在の筑後平野辺りにあったのではないだろうか?もう一点注意したいのは、旅程の記述が突如里程ではなく、日数になっていることである。郡使は朝鮮半島から渡海した際も、「里」程でその距離を計算していたのにもかかわらず、ここからはそうではなくなり、「魏志倭人伝」によって「卑弥呼」のいる女王国の場所を確定する際の最大のネックになっている。上記のように、ほとんど船に乗って筑後平野に抜けるのに、二十日もかかるのだろうか?日数は何を意味するのだろうか?
リンク:投馬国
官曰*彌彌,副曰*彌彌那利。可*五萬餘戸。
訳
官は弥弥、副(官)は弥弥那利という。五万余戸はあるだろう。
注
| 彌彌: | (ミミ)。他国と違う。 |
|---|---|
| 彌彌那利: | (ミミナリ/ミミダリ)。他国と違う。 |
| 五萬餘戸: | 非常に大きな国である。稲作国であり、しかもこれまで出てきた最大の「奴国」の約2.5倍の規模。これほどの人口を支えることができるのは、稲作にかなり適した土地であるはずだ。九州の衛星写真で見てみると、「伊都國」の南に位置し、広大な稲作地帯はやはり現在の筑後や柳川辺りかとも思える。ここには筑後川という大河が流れており、現在でも福岡県の米どころである。(地図参照)ここに大きな稲作国家があっただろうことは、簡単に想像できる。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
那:諾何切 (na/no/da/do)。ナ/ノ/ダ/ド。
利:力至切 (li)。リ。
(備)官名が他国と明らかに違う。国の性質が異なるのだろうか。戸数の表記が「可五萬餘戸」と確報ではない。郡使が直接確かめた数字ではないということか。
南至*邪馬壹國,女王之所都,*水行十日、陸行一月。
訳
南に邪馬台国、女王はここを都とする、に至るには水行十日、陸行一月。
注
| 邪馬壹(國): | 壹は臺の誤り→「考証(1)」。(ヤマタイ/ヤバタイ)。 |
|---|---|
| 水行十日、陸行一月: | 「伊都國」から出発し、しかも同じ水路をとったと仮定すると、水行は「投馬國」(二十日)まで行かずに、船を降りて陸行することになる。では陸行はどの方角へ向かったのか?本文のずっと後のほうに、「女王国東渡海千餘里復有國」とあるが、「女王國」の東には海があって、その先にまた陸地があるということか。この「女王國」が大雑把に「女王の権威が及ぶ領域」という意味であれば、女王の都「邪馬臺國」の位置の確定はさらに難しくなる。ただ、女王は各国に共立されているわけだから、それなりの都にふさわしい地理的条件があるはずで、その権威が及ぶ範囲というものをある程度確定しなければならない。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
臺:徒哀切 (tai)。タイ。
(備)ポイントは「陸行一月」である。船を降りてから、相当な距離がある。「投馬國」と同じ水路を通ったなら、「投馬國」に着く10日前に船を降り、陸路を行く。宝満川、筑後川は有明海に向かうので、それをそれて陸路を行く、あるいは途中で別の水路を取り、その後陸行するとなると、船では行けない土地ということになるだろう。地図で見てみると、現在の大分自動車道の北側に英彦山があり、1200m級の高い山である。当時、九州の北部をほぼ手中に収めていただろう女王国が、その版図のどの方角(筑後方面、筑紫方面、宗像方面、宇佐方面)にも同じ程度の距離で統治をし、しかもその多分に宗教的権威を保つには適した土地なのではないかと思うのである。その唯一の根拠は英彦山から北東に流れる川が、その下流を現在「耶馬溪(やばけい)」(地図参照)と呼び、とても後世に付いた名称ではないような気がするのみである。ちなみに名称で言うと、大下自動車道の南に釈迦岳というこちらも1200m級の山があり、その矢部村からは「矢部川(やべがわ)」が西に向かって流れ、その下流には「八女(やめ)」があることも注意しておきたい。
官有*伊支馬,次曰*彌馬升,次曰*彌馬獲支,次曰*奴佳鞮。*可七萬餘戸。
訳
官には伊支馬がおり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支いい、次を奴佳鞮という。七万余戸はあるだろう。
注
| 伊支馬: | (イキマ)。 |
|---|---|
| 彌馬升: | (ミマショウ)。 |
| 彌馬獲支: | (ミマカッキ)。 |
| 奴佳鞮: | (ノカイテイ)。 |
| 可七萬餘戸: | 確報ではない。「投馬國」のところで述べたが、九州には福岡平野と筑後平野以外に、それらを超える広さの平野はない。また筑後平野は「水行」で直結しているわけだから、「水行十日」の後「陸行一月」もかかるわけがない。よって「邪馬臺國」はここにはなかったと見るべきだろう。そういうわけでこの「七萬餘戸」というのは「奴國」(二万餘戸)と「投馬國」(可五萬餘戸)、その他小国を足した概算ということなのではないだろうか。「奴國」も「投馬國」も王がいるわけではなさそうであり(恐らく王権を女王に譲って、自分たちは女王の血縁ということなのだろう)、女王が直轄しているとして、戸数はそれらを合わせたものと見てよりと思う。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
升:識蒸切 (shö:)。ショウ。
獲:胡伯切 (khak)。カッ。
佳:古膎切 (kai)。カイ。
鞮:都兮切 (tei)。テイ。
(備)ここで注意したいのは、官が四人(あるいは官名が4つ)あり、席次はあるものの、主-副関係ではないこと。
自女王國以北,*其戸數道里可得略載,*其餘旁國遠絶,不可得詳。
訳
女王国から北は、その戸数、道里をわずかに記載できたが、それ以外の隣国は絶遠しており、詳細を得られなかった。
注
| 其戸數道里可得略載: | これはまさに女王国到着以前の記載(「對海國」「一支國」「末廬國」「伊都國」「奴國」「不彌國」)のことを言っている。 |
|---|---|
| 其餘旁國: | 女王国への行程に入っていない国々のことだろう。 |
(備)これは、帯方群から女王国への旅程のまとめ的な文である。ここまで読んだ時点で、読者は旅程についての記述は終了したのだなと受け取れる。
次有*斯馬國,次有*巳百支國,次有*伊邪國,次有*都支國,次有*彌奴國,次有*好古都國,次有*不呼國,次有*姐奴國,次有*對蘇國,次有*蘇奴國,次有*呼邑國,次有*華奴蘇奴國,次有*鬼國,次有*為吾國,次有*鬼奴國,次有*邪馬國,次有*躬臣國,次有*巴利國,次有*支惟國,次有*烏奴國,次有*奴國。此女王境界所盡。
訳
次に斯馬国があり、次に巳百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国がある。これが女王の領土が尽きるところである。
(備)前の文で、行程については総括され、「郡使が赴いた国以外は、詳細が分からなかった」と結んであるにもかかわらず、ここにはそれらの国名が唐突に記載されているのである。しかもいきなり「次有・・・」というように、明らかに前文とつながりの悪い書き出しとなっている。ここは恐らく後から付け足された文なのだろう。ここはもう少し時間をおいて検証してみたい。
其南有*狗奴國。男子為王,其官有*狗古智卑狗。不屬女王。
訳
その南に狗奴国がある。男子が王で、官には古智卑狗がある。女王には服属していない。
注
| 狗奴(國): | コノ。 |
|---|---|
| 狗古智卑狗: | ココチピコ/コクチピコ。 |
字音考察 「説文解字」徐鉉(宋986年)注釈による
古:公戸切 (ko)。コ。
智:知義切 (chi)。チ。
(備)女王国が北部九州の連合体だとすると、その南の「狗奴國」とは、現在の熊本県あたりにあった国なのだろうか?上述したように、女王国が筑紫平野、筑後平野など九州一の稲作地帯を勢力圏にしていたことを思えば、その南のそれほどの稲作環境を持っているとは思えない「狗奴國」が服従を拒んだ根拠は何だったのだろう?(衛星写真)
自郡至女王國,*萬二千餘里。
訳
(帯方)郡から女王国までは、一万二千余里。
注
| 萬二千餘里: | 『魏志(三国志)』は現在には伝わっていない『魏略』という書を多分に参考にしていると言われる。この旅程距離は、同書にある「自帶方至女王國萬二千里」をそのまま引用したと思われる。 |
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