トップ > 魏志倭人伝を読み解す > 考証(1)
帯方郡から邪馬台国に至る道程の記述の中に出てくる「一大國」は、「對海國(対馬)」と「末廬國」の間にあることから、現在の長崎県壱岐に比定される。いくつかの史書で出てくるこの「壱岐」到着の場面を以下に並べて比較してみる。《魏略》は《魏志》のもとになった本で、現存しないもの。《翰苑》という書物に引用されている《魏略》の記載が現存している。《梁書》は唐代(7世紀頃)に成立したもの。
>>又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國。→本文解釈
>>南渡海至一支國,置官至(同)對〔馬〕。
>>始度一海,海闊千餘里,名瀚海,至一支國。
「倭人伝」以外、いずれも「一支國」となっており、地理的にも「壱岐」であることはほぼ間違いないため、「一大國」は「一支國」の誤りである。
伊都國は、帯方郡使が常に駐する地であり、歴代王があるという倭国の中でもひときわ重要な地位を占める国である。にもかかわらず、「倭人伝」ではわずかに「千餘戸」とされ、隣国の奴國(二萬餘戸)、南の投馬國(五萬餘戸)に比べて、人口が余りにも少ない。以下に、魏志倭人伝のもととなったとされる「魏略」逸文を挙げてみる。
>>東南陸行五百里,到伊都國。官曰爾支,副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。→本文解釈
>>東南五〔百〕里,到伊都國。戸万餘,置〔官〕曰爾支,副曰曳渓觚・柄渠觚。
資料が2つしかないので、どちらが正しくどちらが間違いなのか、あるいはどちらも間違っているのか、分からない。ただ、上述したように、奴國(=現在の福岡市辺りにあったと考えられる)が「二萬餘戸」、伊都國(=現在の前原市の一角だったと考えられる)の地勢や政治的な重要性からいって、「万」はあったのではないかと思う
《魏志》の中では、「邪馬台国」は「邪馬壹國」と書かれている。「壹(壱)」は「臺(台)」の誤りなのか。以下にいくつかの史書での記述を並べてみる。
>>南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日、陸行一月。→本文解釈
>>大倭王居邪馬臺國。
[注] 案今名邪摩惟音之訛也。
按:汲本、殿本作「邪馬推」,此作「惟」,形近而譌。又《集解》引惠棟說,謂案北史「推」當作「堆」。今據改。
>>又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國,即倭王所居。
《後漢書》の[注]は注釈で、「邪馬臺」は現在(注釈された当時)の「邪馬惟」だと解説されているが、この「惟」も実は誤りで、その下行の「中華書局」刊本の注では、汲本、殿本では「邪馬推」と書かれ、さらに《集解》の惠棟の説の引用では、北史で「堆」となっていると注意書きされている。これらから、「邪馬臺」は後のある時代に「邪馬推」または「邪馬堆」とされていたことが推測される。《梁書》では、やはり「臺」だが、ただ「邪」が「祁」と誤写されている。いずれも、「邪馬壹國」を押す材料はないので、やはり「邪馬臺國」なのである
女王卑弥呼が、帯方郡に難升米らを遣わして、魏に朝貢したのは、「魏志倭人伝」では景初二年とされる。しかし、魏の武将・司馬懿が公孫氏を滅ぼして楽浪郡・帯方郡を接収したのは景初二年(238年)で、その同年に倭が魏に朝貢するため帯方郡に使者を派遣するのは物理的に矛盾する。
>>景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。→本文解釈
>>槐(魏)志曰:景初三年,*[イ妾](倭)女王遣大夫難升未利等,獻男生口四人、女生〔口〕六人、[王王](班、斑)布二疋二尺。詔以為新(親)魏倭王,假金印紫綬。
>>景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏倭王,假金印紫綬。
>>舊以男子為王,漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子為王,名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏也。
《魏略》《梁書》ともに朝貢は景初三年(239年)と記述している。《梁書》はさらに「公孫淵誅後」と注釈を入れていることから、これは「景初三年」の誤りであろう。。《晉書》は卑弥呼が王に立てられたのは「宣帝之平公孫氏也」としており、これと他の史書を組み合わせると、魏への朝貢は卑弥呼即位直後のことだったと考えられる。この中の「宣帝」とは司馬懿のこと。
つづく